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Allemande ist ein teutsches Klingsttick, oder vielmehr schwābisches Lied, weil vor- zeiten die Alemannen Schwaben Land besessen.] est aussi I'Air d'une ...
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アルマンドの起源について 著者名(日) 雑誌名 巻 ページ 発行年 URL

今谷 和徳 共立女子大学文芸学部紀要 62 23-46 2016-01 http://id.nii.ac.jp/1087/00003101/

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2 3

アルマンドの起源について

いま

たに

かず

のり

今谷和徳 はじめに 中世以来ヨーロッパでは舞踏が盛んで、様々な種類の踊りが踊られてきたことについて は、いくつもの文献、さらには舞踏の伴奏音楽である舞曲の楽譜が数多く伝えられてきた ことなどから、はっきりとみてとれる。とくに、 1 6世紀から 1 8世紀にかけて踊られてい た舞踏に関しては、その踊り方を記した文献がいくつか存在するだけでなく、その伴奏音 楽である舞曲が、やがて観賞用の音楽として作曲されたり、それらがまとめられて組曲の 形で演奏されることが多くなされるようになり、他の時代の舞踏以上に注目に値する。

8世紀前半の最も重要な作曲家の 1人ヨハン・ゼパスティアン・バッハ たとえば、 1 JohannS e b a s t i a nBach( 1 6 8 5 1 7 5 0)は、〈フランス組曲〉、〈イギリス組曲〉、〈パルティー タ集〉といった、鍵盤楽器のための舞曲組曲を残しているが、それらは、当時の典型的な 舞曲であったアルマンド a l l e m a n d e、クーラント c o u r a n t e、サラバンド s a r a b a n d e、ジー グg i g u eを核とし、それに他のいくつかの舞曲を差しはさむという形で構成されている。

そのうち、常に初めに置かれている舞曲アルマンドは、 1 6世紀から 1 7世紀の前半の時期 に実際に踊られていた舞踏アルマンドのリズムを基に書かれたものだが、一般に舞踏アル

6世紀の後半に脅かれた マンドはドイツに起源をもっていると言われている。しかし、 1 ある文献を読み直してみると、その定説に疑問をいだかざるをえない。本論では、そのア ルマンドの起源について考察し、問題提起をすることにしたい(!)。

1 . アルマンドに関する現代の事典の項目 ( 1)舞踏の事典

アルマンドという舞踏に関して、現在ではどのようにとらえられているのだろうか。た

n t e r n a t i o n a le n c y c l o とえば、舞踏に関する最も重要な事典である『ダンス国際百科事典 I p e d i ao fD a n c e l のアルマンドの項目を見てみると、次のようになっている o

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「アルマンドの語(中略)は、〈ドイツの〉を意味し、 1 5世紀から 1 9世紀までの聞に 用いられたいくつかの異なった踊り、あるいは動きの型にあたる。この語は本来、ド イツ起源とされたり、もっぱらドイツ的な性質をもっと考えられる特質を示すために

e r ma l l e m a n d e( … ) ,m eaning“ German ” ,a p p l i e s 用いられたものと思われる。 Thet 百e r e n td a n c e so rt y p e so fmovementi nu s ebetweent h ef i f t e e n t hand t os e v e r a ld i

t h en i n e t e e n t hc e n t u r i e s .Thewordseemst oh a v eb e e nu s e dp r i m a r i l yt od e n o t e c h a r a c t e r i s t i c st h a tweree i t h e ra s c r i b e daGermano r i g i no rc o n s i d e r e dt oh a v e u n i q u e l yGermanq u a l i t i e s . J < 2 > ここでは、アルマンドの起源はドイツにあるのではないかとされている。 ( 2 ) ドイツ語の音楽事典

では音楽辞典ではどうなっているのだろうか。まずドイツ語による最大の音楽事典『歴

i eMusiki nG e s c h i c h t eundG e g e n w a r t(以下、 MGGと略) Jの 史と現代における音楽 D 第 2版のアルマンドの項目は、以下の通りである。 「アルマンド(中略)は、 1 6世紀から 1 8世紀の終わりまでの踊り、および器楽形式 として知られている。初期の理論資料の中で一致しているのは、アルマンドが、“ド

5 8 8 、 イツ人によって踊られていた、中くらいの速度の踊り”(トワノ・アルポー、 1 6 7頁)であり、“ガイヤルドほどすばやくも活発でもない”(プレトリウス、シンタ 、 1 6 1 9 、2 5頁)、ということである。 D i eA l l e m a n d e( … ) i s t グマ・ムジクム第 3巻

a l sT a n z -undI n s t r u m e n t a l f o r mvom1 6 .b i szumEnded e s1 8 .J h .n a c h w e i s b a r . Fr 凶1 et h e o r e t i s c h eQ u e l l e nstimmend a r i ni i b e r e i n .daBd i eA l l e m a n d e≫ e i nb e id e n β膏 (T h .Arbeau1 5 8 8 ,S .6 7 ) D e u t s c h e ng e b r i i u c h l i c h e rTanzv o nm i t t l e r e mZ e i t m a

und≫ n i c h ts of e r t i gundh u r t i g{ . . ]a l sd e rG a l l i a r d ≪ s e i( P r a e t o r i u s S3 ,1 6 1 9 ,

. s25).J ここでは、初期の 2つの文献を引用しながら、アルマンドがドイツ起源であることを述 べているが、そのうちの初めの文献については、引用箇所に続く文章を全く考臓に入れて いないために誤訳となってしまっている。これについてはのちに詳述する。 ( 3)英語の音楽事典

r o v eD i c t i o n a . ηyo f 次に英語による最大の音楽事典『ニュー・グローヴ音楽事典 NewG

アルマンドの起源について

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MusicandM u s i c i a n s J の第 2版のアルマンドの項目では、次のように記述されている。 「アルマンド(中略)(フランス語:〈ドイツの[踊り]〉;イタリア語でアレマンダ、 アッレマンダ)。バロック時代の器楽舞曲の中でたいへんよく知られているもののひ とつで、クーラント、サラバンド、ジーグとともに組曲の標準となる楽章。それは

1 6世紀の初期あるいは中期のある時期に起源をもち、ドイツでは〈トイッチャータ ンツ(ドイツの踊り)〉あるいは〈ダンツ〉、イタリアでは〈バル・トデスコ(ドイツの 踊り)〉、〈パル・フランチェーゼ(フランスの踊り)〉および〈テデスコ(ドイツの)〉

l l e m a n d e( … ) ( F r . :・ G e r m a n[ d a n c e ] ' :I t .a l e m a n d a ,a l といった題名で現われる。 A l e m a n d a ) . Oneo ft h em o s tp o p u l a ro fB a r o q u ei n s t r u m e n t a ld a n c e sandas t a n d a r d to r i g i n a t e d movement.a l o n gw i t ht h ec o u r a n t e ,s a r a b a n d ea n dg 1 g u e ,o ft h es u i t e .I ・1 6 t hc e n t u r y ,a p p e a r i n gundersucht i t l e sa s somet i m ei nt h ee a r l yo rmid

' T e u t s c h e r t a n z ’o r' D a n t z ’i nGermanyand' b a lt o d e s c h o ' ,' b a lf r a n c e s e’and' t e d e s c o 'i nI t a l y . J ( 4 > ここでは、 1 6世紀の資料に現われるアルマンドの題名が引用され、それらを見ると、 この舞踏がドイツ起源のような印象を受けるが、イタリアで〈パル・フランチェーゼ(フ ランスの踊り)〉と呼ばれていた例も挙げられており、アルマンドがドイツ起源であると は必ずしも言えず、事典の項目の筆者は起源論を避けているロ

2 . 初期の文献に見えるアルマンド ( 1 ) アルマンドの語

アルマンドの語が初めて文献に現われるのは、 1 5 2 1年にロンドンで出版されたロパー ト・コープランド R o b e r tC o p l a n d eによる理論書 f パス・ダンスの踊り方 Themanero f

d a u n c y i n g eo fb a c ed a u n c e s J においてであり、ここでは、フランスで踊られていた舞踏 であるパス・ダンス b a s s ed a n s eのひとつの名称として「ラ・アルマンド Laa l l e m a n d e」 の語が用いられている問。ここには譜例が付されていないので比較はできないが、その元 をたどれば、 1 5世紀の後半にイタリアの舞踏家グリエルモ・エプレオ・ダ・ペーザロ

G u g l i e l m oEbreod aP e s a r o( 1 4 2 0頃 ー1 4 8 4以後?)が著した『舞踏の実践あるいは技法 Dep r a t i c as e ua r t et r i p u d i i J で挙げられている「サルタレッロ・テデスコ s a l t a r e l l ot e d e s c o (ドイツのサルタレッロ) Jにあたるのではないかと考えられている刷。

2 6 ( 2)舞曲のアルマンド

( i ) フランドルの舞曲集 舞踏の伴奏音楽である舞曲としてのアルマンドの語は、 1 6世紀の半ば近くになって出 版された舞曲集に初めて登場する。それは、フランドルのリューフェン(ルーヴァン)で

1 5 4 5年から楽譜出版活動を始めた楽譜出版業者ピエール・ファレーズ P i e r r eP h a l e s e ( 1 5 0 5 / 1 0頃 ー1 5 7 3 / 7 6)が、 1 5 4 6年に出版したリュート独奏用の f 援弦楽器のための曲集

e s t u d i n eL i b e rI I I I J で、ここにはイタリア語のアルマンダ a l 第 4巻 CarminumρmT mandaの名による曲が 2曲含まれている問。さらにファレーズは、 1 5 4 9年に出版した リュート曲集にも 1曲のアルマンドを含めている。ここでの名称はフランス語のアルメー

l e m a i g n eが用いられている問。 ニュ a フランドルの楽譜出版業者でファレーズと並んで重要なのは、アントウェルベン(アン ヴェルス)で 1 5 4 3年から楽譜出版活動を開始したテイルマン・スザート TylmanS u s a t o

( 1 5 1 0 / 1 5頃 −1 5 7 0またはそれ以後)だが、彼は 1 5 5 1年に合奏用の舞曲集を出版しており、 その中に 8曲のアルマンドが含まれている。ここでの名称もアルメーニュである則。

( i i ) フランスの舞曲集

6世紀の前半に何度か舞曲集が出版されたが、 フランドルに先立つて、フランスでも 1 それらにアルマンドは含まれていなし、。フランスで最初にアルマンドを含む舞曲集が登場 するのは 1 5 5 1年のことである。 この年、リュート奏者として活動していたアドリアン・ル・ロワ A d r i a nl eRoy 0520 頃 ー1 5 9 8)とそのいとこのロベール・パラール R o b e r tB a l l a r d 0530頃 −1 5 8 8)が、パリで 楽譜出版業を共同で開始するが、その最初の曲集にあたる、ル・ロワ自身によって作曲さ れたリュート独奏曲を集めた

f リュート曲集第 1巻j の中に、 2曲のアルマンドが含まれ

ているのである (IO 。 ) 同じ年、ル・ロワとパラールは、やはりル・ロワ自身の作曲になる『ギター曲集第 l 巻j を出版するが、ここにも、 2曲のアルマンドが含まれ (ll)、翌 1 5 5 2年に出版した、 ル・ロワ作曲の『ギター曲集第 3巻j にも、やはり 2曲のアルマンドが含まれている 02 。 )

1 5 5 2年、パリの出版業者ロベール・グランジョン R o b e r tG r a n j o n 0513頃 −1 5 8 9)と i c h e lF e z a n d a t( 1 5 3 8 6 6に活鼠)が共同で、作曲家のギヨー ミシェル・フェザンダ M ム・モルレ G u i l l a u m eM o r l a y e( 1 5 1 0頃生)が書いた『ギター曲集第 1巻j を出版する が、ここにもアルマンドが含まれている (13。 )

1 5 5 7年、フランス最初の楽譜出版業者ピエール・アテニャン P i e r r eA t t a i n g n a n t( 1 4 9 4

アルマンドの起源について 2 7 頃 −1 5 5 1 / 5 2)没後、その事業を継承した妻のマリ M a r i eが、作曲家クロード・ジェル

l a u d eG e r v a i s e( 1 5 4 0 6 0に活躍)の編曲になる合奏用の舞曲集を出版したが、 ヴェーズ C ここには 8曲のアルマンドが含まれている (14。 ) さらに、パリの楽譜出版業者ニコラ・デユ・シュマン N i c o l a sDuChemin ( 1 5 1 5頃 ー1 5 7 6 ) が 、 1 5 5 9年から 1 5 6 4年にかけて、作曲家ジャン・デストレ J e a nd ' E s t r e e( 1 5 7 6没)に

5 5 9年出版の第 よって番かれた舞曲を集めた 4巻の舞曲集を出版しているが、そのうち 1 3巻に 1 0曲のアルマンドが、 1 5 6 4年出版の第 4巻に 4曲のアルマンドがそれぞれ含まれ ている (15。 ) このように、フランスでは 1 6世紀の後半になって、数多くのアルマンドの楽譜が出版 されていったことがわかる。 ( 3)舞踏のアルマンド

( i ) モンテーニュの証言 では、舞踏のアルマンドに関しては、どのような文献に記述されているのだろうか。前

6世紀の半ば近くから現われる舞曲 述のコープランドの理論書に見えるアルマンドは、 1 6世 のアルマンドによって踊られる舞踏とは必ずしも一致しないので、それを除けば、 1 紀後半に活路したフランスの随筆家ミシェル・ド・モンテーニュ M i c h e ldeMontaigne

( 1 5 3 3 1 5 9 2)が 1 5 8 0年に残した証言が、アルマンドという舞踏についての最初の記述だ と考えられる。 モンテーニュは『エセー E s s a i s J の著者として名高いが、 1 5 8 0年 9月 5日から 1 5 8 1年 1 1月 3 0日まで、ヨーロッパ各地をめぐる旅をし、その聞に見聞した事柄を日記として残

7 7 4年になって、 している o その日記はモンテーニュ在世中には公けにされなかったが、 1 『ミシェル・ド・モンテーニュの旅日記 j o u r n a ld ev o y a g ed eM i c h e ld eM o n t a i g n e J とし てパリで刊行されている。その中の 1 5 8 0年 1 0月 1 7日のアウクスプルク滞在中の記事に、 アルマンドが踊られるのを見たという記述がある。以下、その部分の記述を関根秀雄、斎 。 ) 藤広信両氏の訳で紹介する 06

「月昭日に我々は、金持だが器量の悪いこの町の或る娘さんと、フッガ一家の代理人 をしているヴェネツイア人との、結婚式を見にノートル・ダム寺院に出かけた。(中 略)フッガ一家の人々はたくさんいて、(中略)彼らの邸宅にも行って二つの部屋を 見たが、(中略)我々はまた、この仲間の舞踏も見たが、みなアルマンド[ワルツに 似た三拍子の踊り]ばかりであったロ彼らはー曲踊るたびごとに、女性をもとの席に つれていって座らせる。彼女たちは部屋の四方に二列におかれた、赤い布張りの長椅

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子に腰をかける。男たちはその聞にまじらない。(後略) J この部分の原文は以下の通りである。

「 Lel u n d in o u sf u m e sv o i re n' l e g l i s eN o t r e D a m el apomped e sn o c e sd 'u n er i c h e f i l l ed el av i l l e ,e tl a i d e ,a v e cunf a c t e u r ・ d e sF u g g e r ,V e n i t i e n:….L e sF u g g e r ,q u i s o n tp l u s i e u r s ,….Nousv i ' m e sa u s s id e u xs a l l e se nl e u rm a i s o n:….Nousv i ' m e s h a a u s s il ad a n s ed ec e t t ea s s e m b l e e: c en ef u r e n tqua l l e m a n d e s .I l sl e sr o m p e n tac q u eb o u td ec h a m p ,e tr a m e n e n ts e o i rl e sdamesq u is o n ta s s i s e se nd e sb a n e sq u i s o n tp a rl e sc o t e sd el as a l l e ,ad e u xr a n g s ,c o u v e r t sd ed r a p・ r o u g e:euxn es e m e l e n tp a sa e l l e s . J( J o u r n a ld ev o y a g e ,e d . ,F a u s t aG a r a v i n i )01> このモンテーニュの証言からすると、少なくとも 1 5 8 0年の時点では、アウクスプルク の上流階級の人たちの聞で最もよく踊られていたのはアルマンドだったことが推測でき る 。 ここで問題となるのは、まずモンテーニュがアルマンドを知っていたのかどうか、とい う点である。 1 6世紀の後半の時期に、モンテーニュの活動拠点であったボルドーあるい はその周辺で、アルマンドが踊られていたかどうかを伝える資料はないが、モンテーニユ

5 8 0年の 9月からの旅行の前にパリに滞在しており、当時のパリでアルマンドが踊 は 、 1 られていたことはまず間違いないので、彼がこの舞踏を知っていた可能性は高い。ボル ドーの上流階級の人間であったモンテーニュは、当然他の舞踏が踊れたか、少なくとも 知っていたはずなので、アウクスプルクで接した舞踏会で踊られていたのがアルマンドば かりだった、ということに驚いたのであろう。 一方、モンテーニュはアルマンドの存在を知らず、アウクスプルクの人々から、踊られ ていたのがアルマンドという名の舞踏だと教えられた可能性もある。ただモンテーニュ は、ここでこの舞踏の名称をフランス語で記している o もしモンテーニュがここで初めて この舞踏の存在を知ったのなら、その名称、の由来を述べてもよいはずだが、それについて は何も触れていない。 さて、モンテーニュのこの旅日記の記述によれば、少なくとも当時のアウクスプルクで は、アルマンドを踊るのが一般的であったと考えてよいだろう。となると、現在アルマン ドの起源がドイツにあると一般に言われているのも、当然のように思えてしまうが、当時 のアウクスプルクの町を、現代のドイツの一都市と同じようにとらえてしまうのは問題で ある。それについてはのちに検討する。

アルマンドの起源について

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( i i ) f オルケゾグラフィ j の記述 モンテーニュは、実はこの旅日記で、アルマンドの踊り方については触れていない。そ れについては、 1 5 8 9年にフランス東部の町ラングルで出版された、 トワノ・アルボー

T h o i n o tArbeau著『オルケゾグラフィ O r c h e s o g r a ρh i e J の中の記述が最初である( 18。 ) トワノ・アルポーは、ラングルの司教座聖堂参事会員を務めていたジャン・タプロ

J e a nT a b o u r o t( 1 5 2 0 1 5 9 5)の筆名(本名の J e h a nT a b o u r o tのアナグラム)である。初 版本と考えられる原典は 2種類あり、いずれも内容は同じだが、 1種類には 1 5 8 9年出版 の記載があり、もう 1種類には出版年の記載がない。 2種類の初版本の巻末には、版権の 許可状要約が掲載されており、それによれば、この著作の版権は 1 5 8 8年 1 1月 2 2日にプ ロワにおいて王より与えられ、 6年間有効となっている。前述の MGG第 2版のアルマン ドの項目に引用されているこの著作の出版年は、現代のいくつかの文献に見られるものと

5 8 8年となっているが、これは版権獲得の年であり、出版年の記載がない原典が 同様に 1 この年に出版されたという根拠はない。 さて、この『オルケゾグラフィ jの中のアルマンドの項は、どのように記されているの だろうか。注 ( 1)で触れたように、筆者も参加している古典舞踏研究会の原書論説会では この著作を翻訳中で、いずれ出版を予定しているが、以下に現在の仮訳と原文を示してお きたい。なお、上記原容講読会では、デイジョンの市立図書館所蔵の 1 5 8 9年出版の版を 底本として使用している (19)0

「アルマンドはほどよい落ち着きをもった素朴な踊りで、アレマン人に親しまれてい るものです。また、これは私たちの遠い祖先のものと思われます。なぜなら、私たち はアレマン人の子孫なのですから J 。(古典舞踏研究会原書講読会仮訳)

「 L’ a l l e m a n d ee s tvned a n c ep l a i n ed em e d i o c r eg r a v i t e ,f a m i l i e r eauxA l l e m a d s ,e t c r o yq u 'e l l es o i td en o zp l u sa n c i e n n e s ,c a rn o u ssommesdescendu sd e sA l l e m a n d s . J叩) 問題は、原文の「f a m i l i e r eauxA l l e m a n d s J の部分で、 1 9 2 5年に出版されたボウモン トによる最初の英語訳(21)でも、 1 9 4 5年に出版されたエヴアンズによる英語訳並びにサッ

9 6 7年のその再版(却でも、いずれも「ドイツ人 トンによる新たな序文と注が加えられた 1 a m i l i a rt ot h eGermansJ と訳されている o MGG第 2版のこの部分の に親しまれている f 引用箇所も、前述のように「ドイツ人によって踊られていた b e idenD e u t s c h e ng e 」とドイツ語訳されていた。 b r a i . i c h l i c h e r しかし、原文の

r c a rn o u ssommesd e s c e n d u sd e sA l l e m a n d s J の部分の「Allemands 」

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o u s J は、著者と を、同様に「ドイツ人J ととらえると奇妙な問題が起こる。「私たちは n その周辺の人々、さらに広くとれば、著者が属する民族すなわちフランス人としか考えら

e s c e n d u sd e s J は「の子孫J としか訳せないので、「n o u s J がフランス人の場 れない。「d 合、フランス人がドイツ人の子孫となってしまう。もちろん歴史的にはこれはありえな い。では著者とその周辺の人々がドイツ人の子孫ということは考えられるのだろうか。後 述するように、資料の上でそうした事実は全く見られない。ちなみにポウモントの英語訳 もエヴアンズの英語訳も、ともにこの部分を「ドイツ人J と訳しており、前述の MGG第

2版ではこの部分を全く引用していなし'

o

では、「A l l e m a n d s J を「ドイツ人j以外の意味にとることは可能だろうか。現代フラ ンス語辞典{却を見ると、

r a l l e m a n c la n d e J は「ドイツの、ドイツ人Jだが、語源をたど

n ), iAleman( n )i(アラマン族) Jから来ている、となっている。 ると、それは「Alaman( Alamans/Alamanni」の項目では、意味は「アラマン族」で、「ドイツ Allemagneの呼 「 称、はここに因る Jとある。とすれば、 f オルケゾグラフィ jのこの部分を「ドイツ人Jで はなく、「アラマン人あるいはアレマン人」と考えることは充分可能である o われわれ原 書講読会では、後述する理由から、「A l l e m a n d s J を「アレマン人J ととらえると文章に 矛盾がなくなるので、このように訳出した o ( i i i ) 1 7世紀初めの文献

『オルケゾグラフィ j以後の文献で舞踏に関する記述がなされているものに、ドイツ人

i c h a e lP r a e t o r i u s( 1 5 7 1 ? 1 6 2 1 )が 、 1 6 1 9年にヴオ の作曲家ミヒャエル・プレトリウス M ルフェンピュッテルで出版した著作『シンタグマ・ムジクム SyntagmamusicumJ 第 3 巻がある。そのアルマンドの項目は以下のようになっている o

「アルマンドは多くの場合、ドイツの歌あるいは踊りのことを言う。なぜなら、アル マーニャがゲルマニアを、またアルマンがドイツ人を意味するからである」。

「 Alemandeh e i s ts ov i e la l se i nd e u t s c h e sL i e d l e i no d e rT a n z l e i n :DennAlemagna h e i s tG e r m a n i a ,undunAlemande i nD e u t s c h e r . J< 2 4 > ここでは、アルマンドがドイツ起源だと断定している。なおプレトリウスは、 1 6 1 2年 テルプシコーレ T e ゆ1 s i c h o r e J と題する舞曲集をヴオルフェンピユツテルで出版して に f いる問。ここには、当時のヴォルフェンピユツテルの宮廷で踊られていた、フランスか ら伝えられた舞踏の伴奏音楽である何種類もの舞曲が、多数とりあげられているが、アル マンドは含まれていなし、

アルマンドの起源について

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一方フランスでは、フランソワ・ド・ローズ F r a n c o i sd eLauzeによって脅かれた舞蹄 に関する著作『舞踏の賛美、そしてそれを男性並びに女性に手ほどきする申し分のない方 法A ρo l o g i edel ad a n s ee tl aρ町 f a i c t emethoded el ' e n s e i g n e rt a n tauxc a v a l i e r squ' a u x 、 1 6 2 3年に出版されている制。ここでは数種類の舞踏の踊り方が紹介されて damesJ が いるが、アルマンドには触れられていなし、

7世紀前半のフランスの知識人マラン・メルセ また、数学者や哲学者として活動した 1 arinMersenne( 1 5 8 8 1 6 4 8)は、当時の音楽理論の集大成である『総合音楽論(ア ンヌ M n i v e r s e l / e Jを 、 1 6 3 6年から翌年にかけてパリで出 ルモニ・ユニヴェルセル) Harmonieu 版しており、その第 2巻の中で、リュートのための独奏曲の例として舞曲のアルマンドを

3曲紹介している問。しかし、アルマンドの起源についての言及はなく、舞踏のアルマン ドについてはこの書ではとりあげられていなし h

3 . アレマン人とその支配地域 ( 1 ) アレマン人とは さて、前述のアルポー著『オルケゾグラフィ j の中の「 A l l e m a n d s J を「アレマン人 J と考えた時、そのアレマン人とは一体どのような人々なのかを確認しておく必要があるだ ろう。 アレマン人に関しては、ドプシュの著作側、長友栄三郎氏の著作{捌など、古代ローマ の歴史を扱った研究書、あるいはイム・ホーフの著作側など、スイスの歴史を扱った書 からその実態を知ることができるが、中でも、岩谷道夫氏による論文「スエーピーとアレ マンネン J(31)は、アレマン人とそのもととなったスエーピーについて直接論じたものであ り、彼らについての具体的な動向を把握できる重要な文献と言える。そこで、ここではこ の岩谷氏の論文を中心に、他の文献も参考にしながら、アレマン人についてまとめてみた

し 、 。 アレマン人は、古代ゲルマン民族の一部族(アレマン族、アラマン族)に由来する人々

lamanni、フランス語でアレマン Alemansあるいはアラマ で、ラテン語でアラマンニ A n s、 ドイツ語でアラマンネン Alamannenあるいはアレマンネン Alemannenと ン Alama 呼ばれる。 アレマン人のもとをたどると、ゲルマン人諸部族の中で主導的な立場にあった部族ス

iに行きつく。部族スエーピーについては、古代ローマの政治家ユリウス・ エーピー Sueb a i u sJ u l i u sC a e s a r( 前1 0 0 − 前4 4)の著作『ガリア戦記 C a e s a r 均 sCom ment a r カエサル C i id eB e l l oG a l l i c o J( 前5 2頃)の中に記述がある制。もともとエルベ河の下流域から中

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流域にかけて居住していたスエーピーは、やがてエルベ河の上流へと向かつて南下する。

Iに そしてエルベ河が支流ザーレ川と合流する地点で 2手に分かれ、ひとつは、ザーレ J 沿って上流へと進み、テューリンゲンから西のヘッセンへ向かつてライン河沿岸地域に達 し、ライン河を遡ってマインツに到り、そこを拠点、にドイツ南西部に定住する。もうひと つは、そのままエルベ河に沿って進み、エルベ河がヴルタヴァ(モルダウ)河と名前を変 えるボヘミア平原まで到り、そこを拠点に定住する。カエサルが出会ったスエーピーは、 ライン河一帯に移住した前者のスエーピーである。 カエサルの著作以後、ゲルマン民族について記した文献として重要なものに、コルネリ

u b l i u sC o r n e l i u sT a c i t u s( 後5 6 / 5 7生)の『ゲルマーニア G e r m a n i a J ウス・タキトゥス P ( 後9 7 / 9 8)がある倒。この中でもスエーピーは登場するが、ここではゲルマン人諸部族 のうちの一部族として記述されている。彼らは、北海沿岸からバルト海にかけての北ドイ ツ一帯に居住していた。 ところで、カエサルの『ガリア戦記j とタキトゥスの『ゲルマーニア j には、アレマン 人についての言及はない。アレマン人(アレマン族)が初めて文献に登場するのは、 3世 紀のギリシア人の歴史家カッシウス・デイオ C a s s i u sD i o( 1 5 5頃 −2 3 5頃)が著した f ロー マ史j の中でであり、皇帝カラカラ C a r a c a l l a(在位 2 1 1 2 1 7)が、 2 1 3年にマイン河畔で アレマン族と戦い、帝国への侵入を防いだと記されている。 現代の研究者の間では、アレマン族は、それまでの部族スエーピーを構成していた諸部 族の中核に位置していたセムノーネスを中心に再編されたもの、という認識で共通してい

9 5年 る。アレマン族はその後、ローマ帝国領へ頻繁に侵入し、何度か撃退されている。 3 にローマ帝国が東西に分裂したあと、 4 5 5年頃に、南ドイツに勢力を拡大したアレマン族 がガリアに侵入し、やがてライン河上流地域やアルザス地方、ストラスプールとアウクス プルクの聞の地域に定着しはじめる。

4 7 6年に西ローマ帝国が滅亡したあと、フランク族の王クロヴィスがソワソンの戦いで ガリアの支配者を破り、ロワール河以北を征服してメロヴイング王朝を建設するが、その フランク玉クロヴイスが、 4 9 6年、トルピアックの戦いでアレマン族を撃破する。以後ア レマン族はクロヴィスの支配下にはいり、アレマンニア A l e m a n n i aを統治することにな る 。 このメロヴイング王朝時代のフランク王国で、トウールの司教として活躍したグレゴリ

r e g o r i u s( 5 3 8 5 9 4)は、大著『フランク史j を著わしているが、その中で何度もア ウス G レマン人に言及している。興味深いのは、著者がアレマン人とスエーピ一人を同じ民族と して扱っている点である制。

7 5 1年、メロヴイング家のフランク王が廃位され、カロリング家の宮宰小ピピンがフラ

アルマンドの起源について

3 3

ンク王となり、カロリング王朝が始まるが、 8 4 3年、ヴエルダン条約によりフランク王国 が 3分割される。その時アレマンニアは束フランク王国に属すことになる。 9 1 1年、カロ

1 1 リング家の東フランク王が没してカロリング家が断絶し、コンラート l世(在位 9

9 1 8)が東フランク王になったあと、アレマンニアの支配者が 9 1 7年に公位を獲得し、こ の時からアレマンニアはシュヴァーベン Schwaben公園として知られるようになる。シュ ヴァーベンの名称は、古代ゲルマン民族の部族名スエーピーのドイツ名である。ちなみに シュヴァーベン公園は、公位を継いできたシュタウフェン家が 1 2 6 8年に断絶して消滅す るまで続くことになる。 以上、アレマン族(アレマン人)の変避を、フランス史とドイツ史の通史(紛も参考に しながら、同時代のヨーロッパの動きの中でまとめると、以下の表のようになる。

ヨーロッパの流れ 前5 8

アレマン(アラマン)人の動き

ユリウス・カエサル、ガリア総督 となり、ガリアに遠征。

前5 1

カエサル、ガリアを征服。

前5 2頃 カエサル、『ガリア戦記j を刊行。 この中に、のちのアレマン族(ア レマン人)につながるゲルマン民 族の部族スエーピーについての記 述あり。ここではスエーピーは、 ゲルマン人諸部族の中で主導的な

前2 7

立場にあった。

ローマのオクタウイアヌス、元老 院よりアウグストゥスの尊称を受 け、初代皇帝となる。

7 / 9 8 コルネリウス・タキトゥス、『ゲ 後9 ルマーニア j を刊行。この中でス エーピーは、ゲルマン人諸部族の うちの一部族として記述されてい る 。

2 1 3

皇帝カラカラ、マイン河畔でアレ マン族と戦い、帝国への侵入を防 いだとの記述が、カッシウス・ デイオによってなされる。これが

3 4

アレマン族(アレマン人)が文献 に笠場する初出。以後アレマン族 がローマ領へ頻繁に侵入。 後2 5 3

ゲルマン民族の一部族フランク族 がガリアに侵入。以後ローマ領へ 頻繁に侵入する。

2 5 9

この年から翌年にかけて、アレマ ン族がローマ領に大規模な侵入を 行なう。

2 7 5

フランク族がガリアに侵入。

2 9 3

皇帝デイオクレテイアヌス、帝国 四分統治体制樹立。

2 7 5

アレマン族がガリアに侵入。

2 9 8

アレマン族、ライン河を越えてア ルザスとスイスに侵入。西方副帝 (ガリアの統治者)コンスタン ティウス、ラングル平原でアレマ ン族を撃退。

3 2 4

皇帝コンスタンテイヌス、ローマ 帝国再統一。

3 3 0

皇帝コンスタンティヌス、ローマ からピュザンテイオンに選都し、 岡市をコンスタンティノポリスと 改名。

3 5 7

副帝ユリアヌス、ストラスプール の戦いでアレマン族に勝利。以後

3 5 8

フランク族の主力サリー支族、

アレマン族は、 4世紀の後半に何

ローマの同盟者としてトクサンド

度もローマ領への侵入を試みる。

リア地方に定着。

3 7 4 3 7 5頃

ゲルマン民族、大移動を開始。

3 9 5

ローマ帝国東西に分裂。

4 0 6

プルグント族をはじめとするゲル

皇帝ウァレンテイニアヌス、アレ マン族と和を結ぶ。

マン諸族、ガリアに侵入。プルグ ント族、やがてガリア南東部に定 着 。

4 5 5頃

フランク族のリプアリー支族、

4 5 5頃

南ドイツに勢力を拡大したアレマ

アルマンドの起源について

3 5

ン族、ガリアに侵入。やがてライ

モーゼル川流域に広がる。

ン河上流地域やアルザス地方、ス トラスプールとアウクスプルクの 聞の地域に定着しはじめる。

4 7 6

西ローマ帝国滅亡。

4 8 6

フランク王クロヴイス、ソワソン の戦いでガリアの支配者を破り、 ロワール河以北を征服。メロヴイ ング王朝を建設。

4 9 6

フランク王クロヴイス、

トルピ

アックの戦いでアレマン族を撃 破。以後アレマン族はクロヴイス の支配下にはいり、アレマンニア

Alemanniaを統治する。

5 3 4

フラン夕、プルグント王国を併 ぷ』

i : JO

7 0 6

フランク王国宮宰中ピピン、アレ マン族を攻撃、 7 1 2年に征服。

7 5 1

メロヴイング家のフランク王廃位 され、カロリング家の宮宰小ピピ ンがフランク王となり、カロリン グ王朝始まる。

8 4 3

ヴエルダン条約によりフランク王

8 4 3

国 3分割。

8 7 0

アレマンニアは東フランク王国に 属す。

メルセン条約によりフランク王国 が改めて分割される。

9 1 7

アレマンニアの地はシュヴァーベ ン Schwaben公園となる。

1 2 6 8

公位を継いできたシュタウフェン 家断絶により、シュヴァーベン公 園消滅。

3 6

( 2 ) アレマンニアとシュヴァーベン ここで、アレマン族(アレマン人)の支配地域であるアレマンニア(シュヴァーベン) が、具体的にどのあたりに位置していたのかを確認しておきたい。 フランスの歴史地図帳によれば、フランク王国のメロヴイング王朝支配下にあった 7世 紀後半のアレマンニアは、現在のドイツ南西部にあたる、ライン河上流の東側パーデン= パーデンあたりから、シュトゥットガルトを経てドナウ河上流のウルムあたりまでを北限 に、パーデン=ヴュルテンベルク州の南部の地域、そして、パーゼルあたりからライン河 をさかのぼってポーデン湖あたりまでの地域の南側、ルツェルン、チューリヒ、ザンク ト・ガレンなどを含むスイス北部の地域に広がっていた側。そのアレマンニアの東側に はバイエルン公領があるが、ドナウ河の支流レヒ川沿岸のアウクスプルクは、この時点で はバイエルン公領に含まれていたことがわかる。実はこのバイエルンを支配していたの は、前述のカエサルの

f ガリア戦記j に出てくるスエーピーのうち、のちにアレマン族と

して再編されることになる人々から分かれ、東のポヘミアの地に移住し、やがてドイツ南 東部へと移り住んだ人々である問。つまり、アレマンニアの人々とバイエルンの人々は、 元をたどれば同じ民族だったことになる。 一方、東フランク王国の支配下にはいり、シュヴァーベン公園の名称で知られるように

0世紀から 1 1世紀にかけてのアレマンニアは、ドイツの歴史地図帳によれば、 なった 1 パーゼルより南側のスイスの一部を失うとともに、南西ドイツの西側と東側にそれぞれ少 し領域を広げていることがわかる{刻。すなわち、ライン河を越えた西側の、ストラスプー ルを含むアルザス地方あたりまでと、レヒ J Iを少し越えた東側の、アウクスプルクを含む 一帯までがシュヴァーベンの領域にはいっていたわけである。 ( 3 ) シュヴァーベンとアルマンド

8世紀前半に中部ドイツで活閲したオルガニストで作曲家のヨハン・ゴッ ところで、 1 トフリート・ヴァルター J ohannG o t t f r i e dW a l t h e r( 1 6 8 4 1 7 4 8)は、 1 7 3 2年に『音楽事

u s i c a l i s c h e sL e x i c o n J をライプツィヒで出版しているが側、そのアルマンドの項目 典M に興味深い記述がある(40)。その項目は、まずイタリア語のアッレマンダ A llemandaおよ びアッラマンダ A llamandaで立てられ、フランス語でアルマンド Allemandeがそのあと に添えられている。そこでは次のように説明されている。

「アルマンドはドイツの楽曲、あるいは、おそらくはシュヴァーベンの歌である o な

i e ぜなら、かつてアレマン人がシュヴァーベン地方を支配していたからである。 D

アルマンドの起源について

3 7

A l l e m a n d ei s te i nt e u t s c h e sK l i n g s t i . i c k .o d e rv i e l m e h rs c h w a b i s c h e sL i e d .w e i lv o r -

」 z e i t e nd i eAlemannenSchwabenLandb e s e s s e n . つまりヴァルターはここで、アルマンドは、アレマン人の支配地域であるシュヴァーベ

8世 ンに起源をもっていると示唆しているのである。このヴァルターの説は、その後の 1 紀の音楽家たちに影響を与えてゆく。 たとえば、フランスの思想家ジャン=ジヤツク・ルソー J e a n J a c q u e sR o u s s e a u( 1 7 1 2 -

7 6 8年に『音楽事典 D i c t i o n n a i r ed em u s i q u e J をパリで出版しているが側、 1 7 7 8)は、 1 そのアルマンドの項は 2つあり、第 1の項は音楽作品としての舞曲の説明、第 2の項は舞 踏の音楽の説明で、第 2項は次のようになっている(仰。

l l e m a n d e . 「アルマンドはまた、スイスやドイツで一般に有力な舞踏の音楽である。 A e s ta u s s il ' A i rd’ u n eDansef o r tcommunee nS u i s s e& e nA l l e m a g n e . J

ここで言うスイスは、シュヴァーベンの南西部の地域を指しているのではないかと考え られる。 また、シャルル・コンパン C h a r l e sCompanが 、 1 7 8 7年にパリで出版した『舞踏事典

D i c t i o n n a i r ed ed a n s e J のアルマンドの項(43)では、アルマンドのことを「スイスやドイ ツで一般に有力で、フランスではきわめて古い舞踏 D ansef o r tcommunee nS u i s s e& e n

r e s a n c i e n n ee nF r a n c e J と述べている。 A l l e m a g n e .& t アルマンドとシュヴァーベンあるいはスイスとの関連が文献に現われるのは、このよう に1 8世紀にはいってからだが、ちなみに、フランスの作曲家で理論家のセパステイア

e b a s t i e nd eB r o s s a r d( 1 6 5 5 1 7 3 0)が、 1 7 0 3年にパリで出版した ン・ド・プロサール S 『音楽事典 D i c t i o n a i r ed em u s i q u e J では、アルマンドの項は立てられておらず、代わり にイタリア語のアッレマンダ A l l e m a n d aの項があり、それが音楽作品であることの記述 があるだけである(44。 ) これら 1 8世紀の事典などに見られる、シュヴァーベンあるいはスイスのアルマンドに

0世紀の音楽学者ハンス・ハインリヒ・エッゲプレヒト HansH e i n r i c hEgge ・ ついては、 2 b r e c h tが中心となったマインツの学術・文学アカデミーから出されている f 音楽用語中 辞典 H andworterbuchd e rm u s i k a l i s c h e nT e r m i n o l o g i e J の中の、ライナー・グストライ ンR a i n e rG s t r e i n執筆のアルマンドの項では、 1 6世紀以来の舞踏およびその伴奏音楽、 さらにはそこから派生した観賞用の音楽としての舞曲とは別のものである、スイスとシュ ヴァーベンの民族舞踏として認識されている刷。つまりそこでは、アルマンドを 3つの

3 8

種類に分け、第 lは 、 1 6世紀以来宮廷を中心に踊られていた社交のための舞踏、第 2が 、 スイスやシュヴァーベンの民族舞踏、そして第 3が、踊りの伴奏音楽である舞曲と、そこ から派生し、 1 7世紀以来組曲のひとつに組み入れられていった観賞用の音楽、としてい るのである。

r

4 . オルケゾグラフィ』の著者ジャン・タブロ 次に、前述のように、アルポー著

f オルケゾグラフィ jの中の r c a rn o u ssommesd e -

s c e n d u sd e sA l l e m a n d s J を、われわれ原書講説会の仮訳のように「なぜなら、私たちは o u s J は、著者とその周辺の アレマン人の子孫なのですから」と訳した場合、「私たち n 人々ととるのが自然だろう。そこで、著者やその周辺の人々がアレマン人の子孫と考えて よいかどうかを検討してみることにしたい。 ( 1 ) 『オルケゾグラフィ j と著者

『オルケゾグラフィ jはトワノ・アルポー著となっているが、前述のように、トワノ・

9歳のトワノ・アルポー アルポーはジャン・タプロの筆名である。この著作の本文は、 6 a p r i o lとの対話形式になっており、カプリオルがアルポーから様々な と青年カプリオル C 舞踏の踊り方を説明してもらう、という内容である。

2種類の初版本の表題頁の裏側には、ともに、この番の出版者ジャン・デ・プレ J e a n DesP r e y sが、ギヨーム・タプロ G u i l l a u m eT a b o u r o t( 1 5 7 3 / 7 4 1 6 4 4)という人物に宛 てた献辞がある。ギヨーム・タプロは、著者ジャン・タプロの甥エティエンヌ・タプロ

E t i e n n eT a b o u r o t( 1 5 4 9 1 5 9 0)の息子にあたる。一般に、こうした書籍に付された献辞 というのは、著者がそのパトロンなどに宛てたものが多いのだが、出版者が著者の甥の息 子に宛てるというのは異例といえよう。著者ジャン・タプロに関する詳細な論文を著した

e o r g e sV i a r dによれば、出版者ジャン・デ・プレは、子供の頃 ジョルジュ・ヴイアール G からジャン・タプロによって育てられた人物で、タプロが手に入れた印刷機械設備を使っ

5 8 2年出版のタプロの最初の著作『暦算法 Com p o t て印刷の技法を習得した(46)。そして、 1 e tManuelK a l e n d r i e r J をはじめ、タプロ作の小冊子などを出版してきた。そうした出版 者が、恩人の著者の甥の息子に宛てた献辞を書くというのは、それなりの意味をもってい たと考えられる。 タプロ家というのは、 1 5世紀あたりから台頭した法服貴族の一族で側、

f オルケゾグラ

5歳位であった将来の法服貴族であるギヨーム・タプロがこの フィ jが出版された時に 1 書を献呈されたのは、むしろ自然なことだった。当時、舞踏というのは、法服貴族にとっ

アルマンドの起源について

3 9

て礼儀作法のひとつとして身につけるべきもので、『オルケゾグラフィ』の目的はそこに あった(制。本文でアルボーが対話をしている青年カプリオルは、ギヨーム・タプロをモ デルとしているのではないかと考えられるのである。 こうしてみると、前述の「われわれJとは、著者ジャン・タプロとその甥の息子ギヨー ム・タプロのことを指すのではないかと考えられる。さらに言えば、それはタプロ家全体 のことであり、当該の文は、タプロ家の人々はアレマン人の子孫だと言っていることにな る。では、そのことは確認できるのだろうか。そこでまず、著者ジャン・タプロの経歴を みてみることにしたい。 ( 2 ) ジャン・タブ口とその一族

5 2 0年 3月 1 7日に、プルゴーニュ地方の中心都市デイジョンに生 ジャン・タプロは、 1 まれた(49)。父親は、当時デイジョンの王室会計院傍聴官 A uditeurd e scomptesduRoy を務め、ディジョンの北方にあるヴエロンヌの領主でもあったピエール・タプロ P i e r r e

Tabourotであり、ピエールの父親ジャン J e a nは 、 1 5世紀の後半に、シャロレ伯シャル e c r e t a i r eを務めていた ル(のちのプルゴーニュ公シャルル・ル・テメレール)の書記官 s n t o i n eは 、 1 5世紀初頭に活躍したデイジョ 人物だった。このジャンの祖父アントワーヌ A ンの市民であったから、タプロ家は、少なくとも 1 5世紀以来デイジョンに住み、やがて デイジョンの有力者となっていった一族であったことがわかる(則。 ジャン・タプロの母親は、ラングルの西にあるギユルジの領主だったピエール・ピ ニヤール P i e r r eP i g n a r dの娘デイデイエール D i d ie r eで、彼女の兄弟には、 1 5 0 5年から ラングル司教座聖堂参事会員を務めていたジャン・ピニヤール J e a nP i g n a r d( 1 4 8 8頃 −

1 5 5 0)がいた。ピエール・ピニヤールの父親ギ・ピニヤール GuyPignardは、フランス 2世とフランソワ 1世に書記官 s e c r e t a i r eとして仕え、ラングル総督 B a i l l i f( 地 王ルイ 1 方の行政、司法、軍事を担当する国王代官)を務めた人物であり、母親はグレの貴族の娘 であった(51)。つまりピニヤール家は、ラングルに拠点を置く有力な一族であったことが わかる(本論文末尾の系図参照)。 ピニヤール家の拠点、ラングルは、デイジョンの北東 6 0キロのところにある町で、現在 ではそれほど大きな都市とはいえず、わが国にもその名はほとんど知られていないが、中 世以来、ここはラングル司教区の中心地としてまことに重要な役割を担っていたところ

6世紀まで続いていた倒。ジャン・タプロの母方の叔父ジャ だった倒。その重要性は 1 ン・ピニヤールが、ラングル司教座聖堂参事会員であったことは、ジャン・タプロ自身ば

6世紀以降、世 かりでなく、タプロ家の人々に大きな影響を与えてゆき、タプロ家は、 1 俗の分野ではデイジョンを拠点として、教会の分野ではラングルを拠点として、それぞれ

4 0 重要な地位を占め続けることになる。 ジャン・タプロが生まれた翌年にあたる 1 5 2 1年、ジャンの兄ギ・タプロ GuyT a b o u ・

5 2 3年までこの地位を保ってゆく。さらに r o tが、ラングル司教座聖堂参事会員となり、 1 ギの弟でジャンの兄のジャック・タプロ J a c q u e sT a b o u r o tも 、 1 5 2 7年に同司教座聖堂参 事会員となり、 1 5 5 4年までこの地位にあった制。 1 5 2 6年、ギは俗界に戻って、父ピエー ルのデイジョンでの地位を受け継ぎ、王室会計院傍聴官となった。父ピエールは、 1 5 2 9 年にプルゴーニュ大法官府検査官 C o n t r o l e u ral ac h a n c e l l e r i ed eBourgogneという要職

5 3 2年にデイジョン副伯 Vicomte・mayeurd eD i j o n に就いている。さらにピエールは、 1 の地位にも就いている倒。ピエールが就いたプルゴーニュ大法官府検査官の地位は、そ の後ギに受け継がれることになる制。

1 5 4 4年、ジャンのすぐ上の兄ギヨーム・タプロ G u i l l a u m eT a b o u r o t( 1 5 1 5 1 5 6 1)が、 e sComptesd eD i j o nの評定官 c o n s e i l l e rとなったが、 デイジョンの王室会計院 Chambred i c e n c i ed ed r o i tの学位をもち、デイジョン近郊のサン・タポリネールの領主 S e i ・ 法学士 l g n e u rd eS a i n t ・ A p o l l i n a i r eでもあった彼は、この地位を死ぬまで保つことになる(57)。そ

5 4 9 1 5 9 0)は、のちに国王諮問会議付評定官 の長男で前述のエテイエンヌ・タプロ( 1 c o n s e i l l e rduRoy並びにデイジョン・パイイ裁判所首席検事 p r o c u r e u ra ub a i l l i a g ed e h e o d e c t eT a b o u r o tは、ラングル司教 D i j o nの要職に就き、次男のテオデクト・タプロ T 座聖堂参事会員となるのである(耐(系図参照)。 ジャン・タプロは、青年時代に、ロワール河の南にある古都ポワテイエの大学で学び、 そこで法学士の学位を取得した(59 。 )1 5 4 6年 7月、ジャンは、ラングルのサン=マメ(マ メース) S aint-Mammes司教座聖堂の参事会員となった。ただし、その立場は平聖職者の 参事会員 c h a n o i n ec l e r cであった刷。しかし、 1 5 4 9年には司祭の参事会員 c h a n o i n e

p r e t r eに昇格している(61)。

1 5 5 6年、ジャンは、ラングルの西にある重要都市パール=シュル=オープのサン=マクル 参事会教会 c o l l e g i a l eS a i n t M a c l o uの参事会員ともなり、 1 5 6 5年には、この教会の財務官

t r e s o r i e rの地位にも就いている。この地位は 1 5 8 8年に辞するまで続けられた刷。またラ ングル司教座聖堂では、 1 5 6 6年に参事会の会計院傍聴官 a u d i t e u rd e sc o m p t e sとなり側、

5 6 7年には、同司教座聖堂の聖歌隊長 c h a n t r eともなっている刷)。さらに 1 5 7 5年に 翌1 は、同司教座聖堂の副会計係 v i c e c h a m b r i e rを一時的に務めているし側、翌 1 5 7 6年には、

a p i t a i n ed e sg e n sd ’ arm e sという役職にも任命され 同司教座聖堂参事会管区の憲兵隊長 c ている(刷。

1 5 8 3年 4月 2 7日、ジャンは、ラングル司教座聖堂参事会員の地位を、兄ギヨームの次 5 8 7年、別の参事会員ジャン・ベルネル J e a nB e r n e lか 男テオデクトに譲っているが、 1

アルマンドの起源について

4 1

ら参事会員の地位を手に入れ、 4年にしてこの地位を回復するのである。結局この地位は、 。 ) 以後死ぬまで維持することになる( 67 司教座聖堂参事会員の地位を回復してしばらく経ったあと、おそらくは 1 5 8 9年に、問 題の『オルケゾグラフィ j が出版されることになる。 1 5 9 3年になって、ジャンはラング ル司教座聖堂聖歌隊長の職をやめ、甥のテオデクトにそれを譲っている。また同じ年、パ ロワ(ショーモン、シャトーヴイラン、パール=シュル=オープを含む地方)の司教代理

a r c h i d i a c r eの地位に就いている制。しかしその 2年後、ラングルの司教座聖堂の重要な

5 9 5年 7月 2 9日、臨終の秘践を受けたあとで亡くなり、 地位を歴任してきたジャンは、 1 その遺体は、翌 7月 3 0日にラングルのサン=マメ司教座聖堂の中に埋葬された(刷。 以上のように、ジャン・タプロは、デイジョンの有力者の一族の家に生まれ、母方の関 係からラングルの司教座聖堂の重職に就き、教養人として、

f 暦算法j と『オルケゾグラ

フィ Jという 2つの重要な著作を世に出した人物であったことがわかる。

( 3 ) ジャン・タブロのルーツ こうして、ジャン・タプロの父方と母方の一族をたどっても、アレマン人に直接結びつ く資料は出てきていなし」しかし、間接的にアレマン人と接点をもっていたのではないか と思われる事実も存在している。 まず、ジャンの母方のピニヤール家はラングルを拠点としていた一族だが、この一族の ルーツをどこまでたどることができるかはわからないとしても、このラングルの町は、

2 9 8年にアレマン人の攻撃を受けたものの、それを撃退している( 70)

0

一方、ジャンの父方の曽祖父にあたるアントワーヌ・タプロは、タプロ一族の子孫にあ たるある女性についての研究を通じてわかったことによると、ジュラ地方のサン・クロー ドS tC l a u d eの出身であった (71)0 サン・クロードというのは、現在のスイスの西南にあ るレマン湖の西の方にあり、デイジョンから東南にあたる、ジュラ山脈南部の西麓にある フランスの町である。サン・クロード一帯は、古代のゲルマン民族のうちのプルグント族 が支配していたところで、古代から中世にかけてプルグント王国の領域に含まれていた。 プルグント王国の北東部にアレマンニア(シュヴァーベン)があるが、古代末期から中世

1世紀から 1 2世紀にかけて 初期にかけて、プルグント族とアレマン族の交流は盛んで、 1 は、東フランク王家がプルグントとシュヴァーベンを直接統治していた。したがって、ア レマン族のうちの何人かがプルグントに進出し、定住していったことは容易に考えられ る。とすれば、アントワーヌ・タプロの祖先がアレマン人であった可能性は充分あるので はないだろうか。 ところで f オルケゾグラフィ j には、サン・クロードについて言及したところがひとつ

4 2

だけある。それは、踊りの伴奏楽器のひとつについて述べた部分で、次のように記述され ている。

「私は、プトレマイオスがイウラッスス 1 1 1 (ジュラ山脈)と呼んだサン・クロード山 に由来する複笛が演奏されているのを見たことを思い出しますJ 。(古典舞踏研究会原 書講読会仮訳)

「 Imes o u u i e n td’ a u o i rveui o u e rd’ v n ef l u t t ed o u b l ev e n a n tdumonts a i n c tC l a u d e ・ 」 (72) queP t o l o m e ea p p e l l el emontI u r a s・ ・

これを見ると、著者が曽祖父の出身地をある程度念頭に置いていたのではないかと想像 できょう。 『オルケゾグラフィ j の記述でもうひとつ興味を引くのは、スイス人について言及して いる部分が 2箇所あることである o 『オルケゾグラフィ j では、初めに、舞踏を習得する

. 2 r 6 v)、続いて本題の舞踏の実践の話にはいるが、まず戦闘の踊りにつ 意義が語られ(f v 2 l r)。戦闘の踊りとは、実際には戦闘行進のことで、その中で「ス いて説明されるは6 ambourd e sS u y s s e s Jが紹介されている(73)。さらに、戦闘行進で イス人傭兵の鼓手 Let 使われる楽器のひとつフィフルが紹介され、それはスイス人によって使われる、と述べら れている(74)。実はこの「スイス人」と並んで、フィフルを使う民族がもうひとつ紹介さ れている。原文は「A llemandz& S u y s s e s J なのだが、ここでの「Allemand z」は「ドイ

l ・ ツ人Jではなく「アレマン人Jなのではないだろうか。『オルケゾグラフィ j の中で「A l e m a n d s J あるいは「A l l e m a n d z Jが出てくるのは、問題のアルマンドに関する説明のと ころとここしかない。仮にアルマンドの箇所での『A l l e m a n d s J が「アレマン人Jだとし たら、フィフルについてのこの箇所も「アレマン人Jと考えるのが自然である o アレマン 人とスイス人が並列されていることも、歴史的に見れば納得がいく。

結び 以上、『オルケゾグラフィ j の著者ジャン・タプロが、アルマンドはもともと、アレマ ン人によって踊られていたものと思われる、と述べている意味を検討してきたが、断定は できないものの、アルマンドの起源がアレマン人にある可能性は高いように思われる。モ ンテーニュが、アウクスプルクの上流階級の人たちがアルマンドばかりを踊っていた、と 証言しているのも、アウクスプルクの町が、モンテーニュの時代にはアレマン人の支配地 であるアレマンニア(シユヴァーベン)に属していたことを考えれば、当然のことだとも

アルマンドの起源について

4 3

言えよう。 一般にドイツという地域名は、現在のドイツ連邦共和国の領域とほぼ同ーのようにとら えられているが、歴史的には必ずしも一致しないことが多い。少なくともアルマンドの起 源をドイツだと一般化してしまうのは、再考を要することではないだろうか。

タブ口家系図

I タプロ T a b o u r o t家1 A n t o i n e ディジョン市民、 1 5世紀初頭に活問

I ピニヤール P i g n a r d家1 Guy フランス王ルイ 1 2世と フランソワ 1世の書記官 ラングル総督(国王代官)

C a t h e r i n eD e n i s o t グレの貴族の娘

J e a n



汀ジ

e領

l 陀ル14Il ユ



p且

J e a n シャロレ伯シャルル(のちの プルゴーニュ公シャルル・ル・ テメレール)の書記官

−− −−

h

P i e r r e

D i d i e r e

J e a n

( c . 1 4 7 5 - )

( c . 1 4 8 8 1 5 5 0 )

デイジョンの王室会計院傍聴官 プルゴーニュ大法官府検査官 デイジョン副伯 ヴエロンヌ領主

Guy ラングル司教座聖堂 参事会貝 デイジョンの王室会計院傍聴官 プルゴーニュ大法官府検査官

ラングル司教座聖堂参事会員

J e a n ( T h o i n o t A r b e a u )

G u i l l a u m eI e r

J a c q u e s ラングル司教座聖堂 参事会員

( 1 5 1 5 1 5 6 1 ) デイジョンの王室会計院

評定官

サン・タポリネール領主

E t i e n n e

( 1 5 4 9 1 5 9 0 ) 国王諮問会議付評定官 デイジョン・パイイ裁判所首席検事 デ・ザコール殿

G u i l l a u m eI I

0 5 7 3 ν 7 4 1臼4 ) E t i e n n eI I

,

I

( 1 5 2 0 1 5 9 5 ) ラングル司教座聖堂 参事会貝

T h e o d e c t e ラングル司教血盟賞 参事会貝

J e a n n eB e r n a r d

T h e o d e c t eI I ラングル司教座聖堂参事会員

4 4 〈 注 〉

(1) 本論は、主として 1 5世紀から 1 8世紀までの時期にヨーロッパで踊られていた舞踏の研究、 再現を行ない、さらにその普及を目的として活動している、わが国の古典舞踏研究会の原書 講説会による、アルボー著

f オルケゾグラフィ j翻訳の過程で浮かびあがった問題をきっか

けとし、筆者が、 2 0 1 5年 3月 1 0日に音楽史研究会例会(於、工学院大学)で発表した研究 報告「アルマンドはドイツ起源なのか?

Jにもとづいている。

(2) RebeccaH a r r i s W a r r i c k .”A l l e m a n d e . ”b z t e m a t i o n a le n c y c l o ρe d i ao fD a n c e .v o l .1 .p p .4 5 4 7 .1 9 9 8 . (3) MonikaW o i t a s .”A l l e m a n d e . ”D i eMusiki nG e s c h i c h t eundG e g e n w a r t .Z w e i t e ,n e u b e a r b e -

.1 9 9 4 ,p p .4 6 2 4 7 0 . i t e t eA u s g a b e .S a c h t e i l1 l l e m a n d e . "TheNewGroveD i c t i o n a r yo f (4) M e r e d i t hE l l i sL i t t l eandSuzanneG .C u s i c k .“A e c o n dE d i t i o n .v o l .I .2 0 0 1 ,p p .3 9 4 3 9 8 . MusicandM u s i c i a n s .S l l e m a n d e . ,ゆ.c i t .• p .4 5 . (5) H a r r i s W a r r i c k .A l l e m a n d e ,o p .c i t .• p .4 6 3 . W o i t a s .A l l e m a n d e ,o p .c i t . .p .3 9 4 . L i t t l eandC u s i c k ,A a t i c as e ua r t et r i . ρu d i i ,e d .andt r a n s .byB a r b a r aS p a r t i . (6) G u g l i e l m oEbreodaP e s a r o ,Deρr

O x f o r d ,1 9 9 3 . a t a l o g u ed e sE d i t i o n sd em u s i q u eρu b l i e e st iLouvainραrP i e r r eP h a l e s e (7) H e n r iV a n h u l s t .C e ts e sβl s ,1545-1578,B r u x e l l e s .1 9 8 4 .p p .8 1 0 . b i d . .p p .1 6 1 8 . (8) I

(9) UteM e i s s n e r .DerAntwe ゆe n e rN o t e n d r u c k e rTylmanS u s a t o .I I .B e r l i n ,1 9 6 7 .p p .7 2 7 5 . i b l i o g r a ρh i ed e se d i t i o n sd’ 'A drianl eRoye t ( 1 0 ) F r a n c o i sL e s u r ee tG e n e v i e v eT h i b a u l t .B

a r i s .1 9 5 5 ,p p .5 1 5 2 . R o b e r tB a l l a r d .P b i d . .p .5 2 . 01) I ( 1 2 ) I b i d . .p .5 4 . e . ρe r t o i r ei n t e m a t i o n a ld e ss o u r c e sm u s i c a l e s ,R e c u e i / sim ρr i m e . ( 1 3 ) F r a n c o i sL e s u r e( d i r . R s XV/e-XVJI/es i e c l e s .M i l n c h e n ,1 9 6 0 .p . 1 8 9 .

04) D a n i e lH e a r t s .P i e r r eA t t a i n g n a n t ,R o y a lP n ' n t e ro fM u s i c ,B e r k e l e y ,1 9 6 9 .p p .3 7 5 3 7 6 . i b l i o g r a p h i ed e se d i t i o n sm u s i c a l e sp u b l i e e s ( 1 5 ) F r a n c o i sL e s u r ee tG e n e v i e v eT h i b a u l t .“B ” )( Anna/esM u s i c o l o g i q u e ,iN e u i l l y s u r S e i n e ,1 9 5 3 ) . p a rN i c o l a sduChemin 0549-1576

p p .3 2 9 3 3 0 .3 3 3 . モンテーニュ旅日記j、白水社、 1 9 9 2、p . 5 8 。 ( 1 6 ) 関根秀雄、斎藤広信訳 f

( 1 7 ) M i c h e ldeM o n t a i g n e .J o u n z a ld ev o y a g e ,E d i t i o np r e s e n t e e .e t a b l i ee ta n n o t e ep a rF a u s t a G a r a v i n i ,P a r i s .1 9 8 3 ,p . 1 2 8 ( 1 8 ) この著作の原典、内容、著者等については、以下の拙論を参照。 今谷和徳「トワノ・アルポー著『オルケゾグラフィ j をめぐって J(『桐朋学聞大学研究紀 要j 第 2 7集 、 2 0 0 1。 )

( 1 9 ) T h o i n o tA r b e a u .O r c h e s o g r a p h i e .L a g r e s .1 5 8 9 .( D i j o n .B i b l i o t h e q u em u n i c i p a l e .no9 4 9 4 ( 1 6 0 6 5 ) ) ( 2 0 ) I b i d . .f . 6 7 r . r c h e s o g r a p h y ,aT r e a t i s ei nt h eFormo faD i a l o g u e ,… b yT h o i n o tA r b e a u .t r a n s .by ( 2 1 ) O

C y r i lW.Beaumont.w i t haP r e f a c ebyP e t e rW a r l o c k .London:C .W.B e a u m o n t ,1 9 2 5 .( 2 n d

アルマンドの起源について

4 5

e d .NewYork:DanceH o r i z o n s .1 9 6 8 ,p .1 0 9 ) ( 2 2 ) T h o i n o tA r b e a u .O r c h e s o g r a p h y .t r a n s .byMaryS t e w a r tE v a n s .L o n d o n :KaminDance P u b l i s h e r s .1 9 4 5 .( 2 n de d .w i t hanewI n t r o d u c t i o nandN o t e sbyJ u l i aS u t t o nandanewL a b a n o t a t i o ns e c t i o nbyM i r e i l l eB a c k e randJ u l i aS u t t o n .NewY o r k :DoverP u b l i c a t i o n s .1 9 6 7 . p .1 2 5 ) ( 2 3 )

I ロベール仏和大降典j、小学館、

1 9 8 8 。

( 2 4 ) M i c h a e lP r a e t o r i u s .SyntagmamusicumI I I , Terminim u s i c i ,W o l f e n b i l t t e l .1 6 1 9 .p .2 5 . ( F a c s i m i l e .K a s s e l :B a r e n r e i t e r .1 9 7 8 ) e r p s i c h o r e .W o l f e n b i l t t e l .1 6 1 2 .( G e s a m t a u s g a b ed e rm u s i k a l i s c h e n ( 2 5 ) M i c h a e lP r a e t o r i u s .T

WerkevonM i c h a e lP r a e t o r i u s .v o l . 1 5 .W o l f e n b i l t t e l .1 9 2 9 ) o l o g i ed el ad a 1 1 s ee ll aρ αげ" a i c t emethoded el ’ e 1 1 s e i g 1 1 e rt a 1 1 /aux ( 2 6 ) F r a r n ; o i sdeL a u z e .Aρ c a v a l i e r squ' a u xd a m e s .1 6 2 3 .( R e p r i n t .P a r i s .H a c h e t t eL i v r e .1 9 2 0 ) 1 1 1 i v e r s e l l e .P a r i s .1 6 3 6 3 7 .I I .p p .8 5 8 9 .( E d i t i o nf a c s i m i l e . ( 2 7 ) MarinM e r s e n n e ,Harmonie1

E d i t i o n sduc e n t r en a t i o n a ld el ar e c h e r c h es c i e n t i f i q u e .P a r i s .1 9 6 5 ) i r t s c h a / t l i c h ezmds o z i a l eG r z m d / a g e 1 1d e re u r o p i i i s c h e 1 1K u / t u r e n t w i c k ・ ( 2 8 ) A l f o n sD o p s c h .W

α , r ld e nG r o s . ' i e 1 Z ,W i e n .1 9 2 3 2 4 . (ドプシュ、野崎山治、 l u n ga u sd e rZ e i lv o nC a e s a rb i sau/I( 石川操、中村宏訳『ヨーロッパ文化発展の経済的社会的基礎一一カエサルからカール大併に いたる時代の一一j、例文社、 1 9 8 0 )

( 2 9 ) 長友栄三郎

f ゲルマンとローマ j、創文社、 1 9 7 6 。

( 3 0 ) U l r i c himH o f .G e s c h i c h t ed e rS c l z w e i z .1 9 9 1 .( U .イム・ホーフ、森田安一監訳[スイスの 版史j、刀水書房、 1 9 9 6 ) ( 3 1 ) 宕谷道夫「スエーピーとアレマンネン一一中世初期アングロ・サクソン諸王凶の 1~ 肱的背

! ; t (l)一一J< r 法政大学キャリアデザイン学部紀要 1 J、2004。 ) ( 3 2 ) G a i u sJ u l i u sC a e s a r ,C a e s a r i u sCommentariid eB e l l oG a l l i c o . (カエサル、閥胤古之助 i 沢

f ガリア戦記j、講談社学術文 W , 1994) e r m a n i a . (タキトゥス、 } i U I :久之助訳『ゲルマーニア j、岩波 ( 3 3 ) P u b l i u sC a r n e l i u sT a c i t u s .G 文庫、 1 9 7 9 )

r e g o r iE p i s c o p iT u r o 1 1 e 1 1 s i sh i s t o r i a r u mL i b r iX . (トウールのグレ ( 3 4 ) G r e g o r i u sdeT o u r s .G ゴリウス、兼岩正夫、長幸夫l U {f 暦史十巻(フランク史) J、東海大学出版会、 I .1 9 7 5、I I .

1 9 7 7;トウールのグレゴリウス、杉本正俊訳

f フランク史 1 0巻の歴史j、新評論、 2 0 0 7 )

( 3 5 ) 柴田三千雄、樺山紘一、福井溜彦編『世界歴史体系

・ m二制『 111: 界歴史体系

1 1回欣吾、木村 成瀬治、 1

フランス史J( 1)、山川出版社、 1 9 9 5 。

ドイツ史J( l )、山川出版社、 1 9 9 7 0

t l a sd el ' h i s t o i r ed eF r a n c e ,4 8 1 / 2 0 0 5 ,B e l i n ,2 0 1 2 .p .4 6 . ( 3 6 ) J o e lC o r n e t t( d i r . A

.1 4 6 。 ( 3 7 ) 岩谷道夫「スエーピーとアレマンネン j、前掲論文、 p ( 3 8 ) WestermannV e r l a g .G r o . βe rA t l a sz u rW e l t g e s c l z i c l z t e .1 9 7 6 .p p .5 8 5 9 . u s i c a l i s c h e sl e x i c o n ,o d e rM u s i c a l i s c h eB i b l i o t h e c .L e i p z i g . ( 3 9 ) JohannG o t t f r i e dW a l t h e r .M

1 7 3 2 .( F a c s i m i l e .K a s s e l :B a r e n r e i t e r .1 9 6 7 ) ( 4 0 ) I b i d . .p p .2 7 2 8 . i c t i o n n a i r ed em u s i q u e .P a r i s .1 7 6 8 .( R e p r i n t ,H i l d e s h e i m .Georg ( 4 1 ) J e a n J a c q u e sR o u s s e a u .D

OlmsV e r l a g .1 9 6 9 ) ( 4 2 ) I b i d . .p .3 1 . ( 4 3 ) C h a r l e sCompan.D i c t i o m z a i r eded a n s e ,P a r i s .1 7 8 7 .( F a k s i m i l e .NewY o r k .Broude





4 6 B r o t h e r sL i m i t e d .1 9 7 4 ) .p .8 . ( 4 4 ) S e b a s t i e ndeB r o s s a r d .D i c t i o n a i r edem u s i q u e ,P a r i s .1 7 0 3 .( R e p r i n t .G e n e v e .E d i t i o n s M i n k o f f .1 9 9 2 ) “A l l e m a n d e " ,Handworterbuchd e rm u s i k a / i s c h e nT e r m i n o / o g i e ,S t u t t g a r t . ( 4 5 ) R a i n e rG s t r e i n,

FranzS t e i n e rV e r l a g ,1 9 9 8 . , “J e a nT a b o u r o t .C h a n o i n ed eL a n g r e se tM a i t r ea d a n s e r . "J e a nT a b o u r o t ( 4 6 ) G e o r g e sV i a r d ρs( L a n g r e s ,1 9 8 9 ) .p p .1 1 6 6 . e ts o nfem ( 4 7 ) タプロ家については、以下の 2つの脅が重要である。

G e o r g e sC h o p t r a y a n o v i t c h .E t i e n n eT a b o u r o td e sA c c o r d s .D i j o n ,1 9 3 5 .( R e p r i n t .G e n e v e : S l a t k i nR e p r i n t s ,1 9 7 0 ) F r a n c o i sMoureau&M i c h e lS i m o n i n( d i r . ) .T a b o u r o t ,S e i g n e u rd e sA c c o r d s .P a r i s .1 9 卯 . ( 4 8 ) 今谷和徳「トワノ・アルポー著 f オルケゾグラフィ j をめぐって J 、前掲論文、 p p . 2 8 2 9 。 ( 4 9 ) V i a r d ," J e a nT a b o u r o t… ” ,0ρ .c i t . .p . 1 2 . t i e n n eT a b o u r o td e sA c c o r d s ,o p .c i t . .p p .1 5 1 7 . ( 5 0 ) C h o p t r a y a n o v i t c h ,E

J e a nT a b o u r o t…”, o ρ .c i t . .p .5 9 . ( 5 1 ) V i a r d .“ ( 5 2 ) 中世における、司教区の中心地ラングルの重要性に関しては以下を参照。 渡辺節夫 f フランス中世政治権力構造の研究j、東京大学出版会、 1 9 9 2 。 ( 5 3 ) ラングルに関しては、以下を参照。 AndreJ o u r n a u x( d i r よH i s t o i r ed eL a n g r e sd e so n ' g i n e st in o sj o u r s .Lav i ed’ unec i t e . C a e n ,1 9 8 8 .(~ ed . .1 9 卯 ) ( 5 4 ) V i a r d “ ,J e a nT a b o u r o t… " , 0ρ .c i t . .p p .1 3 1 4 .

b i d . .p .4 3 . ( 5 5 ) I ( 5 6 ) I b i d . ,p .5 9 .



t i e n n eT a b o u r o td e sA c c o r d s ,ρ .c i t . ,p . 1 6 . ( 5 7 ) C h o p t r a y a n o v i t c h .E b i d . ,・ p .6 6 .G .V i a r d “ ,J e a nT a b o u r o t…七 o p .c i t . .p .1 4 .p .6 0 . ( 5 8 ) I

e a nT a b o u r o t… ぺ oρ.c i t . .p . 4 4 . ( 5 9 ) V i a r d .“J ( 6 0 ) I b i dp . 1 2 . 句

b i d . ”p . 1 3 . ( 6 1 ) I b i d . ”p . 3 2 . ( 6 2 ) I b i d . . ・p .2 1 . ( 6 3 ) I ( 6 4 ) I b i d . .p .2 4 . ( 6 5 ) I b i d . .p .2 1 . ( 6 6 ) I b i d . .p p .3 3 3 4 . b i d . . ・pp.14-15. ( 6 7 ) I ( 6 8 ) I b i d . .p .2 7 . ( 6 9 ) I b i d . . ・p p . 5 6 5 7 . ( 7 0 ) J o u r n a u x( d i r . ) ,H i s t o i r ed eL a n g r e s…ゅ.c i t . .p p .4 5 4 6 .

a m i l l eT a b o u r o td eVeronnes ( B o u r g o g n e .G u a d e ( 7 1 ) P h i l i p p ee tB e r n a d e t t eR o s s i g n o l .“F ” .G e n e a / o g i ee tH i s t o i r ed el aC a r a i b e ,nomero7 1 .1 9 9 5 . l o u p e) ( 7 2 ) O r c h e s o g r a ρh i e ,o ρ .c i t . .f . 2 3 v . b i d . .f . 1 5 v . ( 7 3 ) I ( 7 4 ) I b i d . .f . 1 7 v .